Ehunmilak Ultra-Trail レポート
2017.09.26 山本 健一

Ehunmilak Ultra-Trail レポート

Ehunmilak Ultra-Trail report

2017、今年のレースはスペインバスク地方のエフンミラクを選んだ。
3年前、勤務先が北杜高校になり、僕は普通科の担任を任されているわけですが、3年に持ち上がったときに海外レースは厳しいかもしれないということを周りからも言われていたし、僕自身そうなのかな、とも思っていた。家族も増えて、娘たちの習い事の発表会などが増えてきた。日々のトレーニングはできるけど、まとめて海外遠征に行くことは家族も含めて多くの人の支援が今まで以上に必要になってきている。僕はやはり、どれも取りたいタイプで、「走ること」、「仕事」、「家族」このバランスは崩したくなく、これをぎりぎり(いや、崩れているかな?)保ちながら、やっているつもりなのである。
エフンミラクはバスクのベアサインという街をスタートして反時計回りに一周してまたベアサインに戻ってくる100マイルレース。バスク語でEhun=100、milak=mileということでとってもシンプルなネーミングだった。スペインといっても、バスクは独自の文化を持ち、もちろん言語もバスク語が共用語でスペイン語とは全く違う。人々は陽気で、ピンチョスという地元料理もおいしく、とっても幸せな地域である。何日も滞在したい、そんな風に思える街だった。
Ehunmilak 168km、11200mD+。
ピレネーより厳しく、アンドラより優しい。僕の物差しは、単純に過去の経験からこんな風に感じていた。しかし、昨年の優勝タイムからしても、高速で走れるのかな、とも思いつつ、あまり気にもしていなかった。


いつも通り、日本を日曜日の夜に出て、現地に月曜日の夕方につき、火曜日からコースチェックが始まった。印象的だったのは水曜日のコースチェックで、チンドキという山に登ったのだけれども、標高の割にとても高度感があったことだ。チンドキは1200mくらいなのに、3000mの山にいるみたいな感覚。このレース、最高標高は1500mそこそこ。いつものレースでは考えられないほどの低山。しかし、最低は80m。とても暑い街の中から、岩肌がかっこいい山岳エリアまでとても幅が広く感じる。上がったときはやけに高いところにきたなぁと、なんだか得した気分になれるのも特徴の一つだ。
今回の遠征は総勢7名のチーム山本となった。すべてのマネジメントをしていただいているボスの齋藤通生さん、いつも僕のことを第一に考えてくれている。奥様の直子さんは、いつもおいしい料理を作ってくれる。フルマークスよりHOUDINI担当のタチさんこと舘下さん、ナビゲーターもするし、GO pro片手に山を駆け巡るし、気が利くスーパーマン。メンバー全員の心と体のメンテナンスを行ってくれる越中さんは、遠征期間中全てのバランスを取ってくれる歯車的存在で欠かせないメンバーである。深夜遅くまで皆の体をチェックして、万全の状態で次の日を迎えられる。カメラマンの藤巻翔くんは、最近体がまた一回り大きくなり、相変わらずの徹底ぶりで、ベストポジションを探り当てるために労を惜しまず動き回る。その結果が形となってみなさんの手元に届いているはず。そして今年は新しいメンバーにライトアップからプロスノーボーダーの渡辺雄太くんがカメラマンとして加わった。彼はやはり、第一線で活躍するアスリートであり、その視線から鋭い質問がバシバシくる。とても明るくストレスフリーなメンバーでとても楽しかった。


前日木曜日、ちょっとした、いやちょっとしていない出来事が起こった。それはルールについて、僕の準備不足で皆に迷惑というか、戸惑いというか、そんなようなことをしてしまった。それは、エイドでのサポートについて。前日いつものようにエイドで持って行ってもらう荷物を小分けにしていたわけだけど、全て分けて、通生さんにも説明をしてさあ受付行くぞ、というタイミングで、受付引換票の裏を流し読みしていた。そのとき、「第5章を確認」みたいなことが書かれていて、ルールブックのその章を見てみた。そうするとなんと、エイドでのサポートに制限がある、ということが書かれている。しかし、入れないエイドがあるんだな、とそのくらいにしか思っていなくて、お気楽でいたのだけれども、いざ受付で確認をすると、「サポートは一切禁止」とのこと。選手はドロップバッグを2ヶ所有効利用するのがルールということを知った。今頃気づくなんてなんとも情けないことで、それでもみんな同じ条件だし、生徒と重いザックを背負って走ってきたし、問題ないと自分の中では思っていた。むしろ、「おもしろいじゃん」と思っていた。サポートの皆に近くで会えないのはすごく寂しいけど、「サポート一切禁止」は新しい扉を開けるときかなと思った。だから不安というよりワクワクしていた。アパートに帰り、急いでドロップバッグを作った。こんなの利用したことないし、新鮮だった。ありったけの想像をして準備をしていると、あれもこれもで、意外と荷物が大きくなってしまった。ぱんぱんのドロップバッグを両手に写真を撮ってもらった。やはり新鮮。


金曜日、18:00、ベアサイン、2つのドロップバッグを預けて、いよいよスタート。とても暑く、直前までオンヨネの薄いインナーで過ごした。
今回のテーマは「バスク人を喜ばせる」にした。バスク人を喜ばせることができれば、きっと自分に返ってきて力をもらえると思ったから。まずしたことは、言葉を覚える。そして、越中さんと相談して脚のテーピングをバスクの国旗のカラーにした。前日に地元新聞に特集してもらったこともあって、街の人は僕に少しだけ注目してくれていたみたいだ。だからテーピングが国旗のカラーということに気づいてくれた人もいた。


スタートして最初の1時間で汗びっしょりになり、全身ずぶ濡れ状態になった。周りの選手も同じようにびしょびしょになっている。想像以上に暑い。水をたくさん飲んで、塩熱サプリも1時間に2粒くらい採り、脱水、ナトリウム不足にならないように気をつけながら進んだ。いつも最初はたいして走れない。どういうわけか、ふわふわしたような感覚で走っていた。これは軽いのか、だるいのか、よくわからなかったが、そのうち普通になるだろうと思っていた。2時間、3時間と経ち、自分の調子をうかがった。いまいち、いつもの感じではないな、と感じながらも前へ進んだ。ここまで進んで、気づいたことがある。それはところどころに山岳エリアがあり、大半は舗装路と林道ということ。
コースプロフィールと昨年の優勝タイム、なるほど、そういうことか。


暑さ、高速コース、サポート無し、かなりタフなレースに来た、新しいチャレンジ、新しい扉を開けるときと思い、ただ前に進んだ。バスク人の力を借りないと完走できないと思いながら走っていた。
そんな矢先、30km地点を過ぎた頃、時間は3時間ちょっとすぎだったと思うけど、両サイドの石に左足が挟まり、つま先が残った形で、足首を縦に捻ってしまった。ただし、左右はニューハレ、エックステープでサポートしてあるのでかなり安定している。まさか、縦に捻るとは・・・。しかし捻ったといっても、たいして気にならない程度で、そのまま止まることもなく進んだ。しばらくは何時間も捻ったことなど忘れていた。


夜中になり、霧が出て、雨が降ったり、やんだり、海の方で雷がかっこよく光ったり、すっと雲がなくなり、月明かりに雲海が照らされて幻想的な風景になったり、めまぐるしく天候が変わっていた。あまり寒くなく夜の道を楽しんでいた。夜中のエイド、Tolosaでは深夜1時を回っていたはずだけど、街では地元民が屋外で飲んでいて、そこの飲み屋街を通りまた山に入っていくのだが、全力で応援してくれていた。本当に力になる。自分の力なんてほんの少しで、人からパワーをもらってやってきているとつくづく感じる。
やがて朝になり、101kmのチンドキ山を目指す。この山に7時にくれば、朝陽でよい写真が撮れる、とカメラマンの藤巻君から言われていたので、なんとか目標にしていたけれど、大きく遅刻して8時半を過ぎていたと思う。しかも霧でほとんど見えない状況。「ごめーん」と謝り、それでも少しペースを上げた。そこで、地元ヒーローのイケルという有名な選手がチンドキ山でトレーニングをしていて20分ほど一緒に走った。彼は翌週アメリカコロラドで開催されるHARDROCK100に出場するようだ。僕が出たいレースのひとつであるそれは、厳正な抽選で140名のランナーが走ることができる。もう4回も落選している。倍率がかなり高く、この先も出場できるかわからない。そんなことを考えているうちに、30数キロで捻った足に違和感がかなりあることに気づいた。これはおかしいかもしれない。登りも下りもスピードが出せない。むしろ落ちている。しかし、チンドキの先はすごくかっこいい馬蹄形の岩場のトレイルが広がっていて、ちょうど雲も切れ、最高の景色を目に焼き付けることができた。でも足は徐々に追い込まれていっていた。足首の上のすねの下部が痛い。少しずつ腫れてきている。ソックスが少しずつきつくなっている。110kmのあたりで、かなりのペースダウン。120kmでは歩く回数が増えてきていた。130kmまでは同じく足首を捻挫したイギリスから参加の選手と同盟をくんで一緒に捻挫仲間として歩いた。しかし彼は130kmを過ぎたあたりで先に行って、その後リタイアした模様。最後の力を振り絞ったか。僕はというと、ドロップバッグのある130km地点Etzegarateで通生さんや皆と別れて、San Adrianに向かったわけだが、このときはほぼ走れなくて、とても困り果てていた。135kmを過ぎると、この先に今大会1番の難所、アイスコリがあることがわかっていたので、自然と不安でいっぱいになる。涙が自然とこぼれ、前が見えない状態で歩く。とりあえず通生さんたちに相談しようと思い電話するがつながらない。アイスコリの中腹で僕を待っていてくれていているタチさんに電話。つながった。とりあえず相談したいから山を下って下さいと。137kmくらいで合流して一緒に歩く。この先のエイドSan Adrianは山の中で、通生さんたちはいないということを知らされる。どうしよう、涙があふれる。エイドではドクターがいて、僕はもしかして、スペシャリストならうまく固定して登れるようにしてくれるかもしれない、と期待を抱き、治療室に入った。状況を説明して、早速靴を脱ぎ、靴下も脱ぎ、指を一本出して、「ワンフィンガー」といって僕の足の中指を軽く押さえた。
「うぎゃー」
僕のその一言で、ドクターは「君はアイスコリには登れない」と、まるで「おまえはもう死んでいる」かのように僕にリタイア宣告をした。しかしその場ですっきり決められなかった僕は通生さんに連絡を取った。ついにつながり、事情を説明。そうしたら通生さんは「やめておけ」と言った。
ここで僕のエフンミラクは終わった。その後レスキューの車で一つ手前のエイドまで行き、さらに手当を受けた。まさかのリタイアである。
レース前はそんなことちっとも考えていなかっただけに、気持ちの整理がつかないでいた。自分がゴールせずにリタイア。考えられなかった。
この世の中には、怖い物が一つだけあって、それは交通事故。それは避けられないもの。むしろ交通事故以外はなんでもできると思っていた。どんな試練も乗り越えられるし、なんとかなるさ、と思っていた。しかし、怖い物がもう一つ増えた。捻挫は怖い。2012年のアンドラでのレースのとき、カメラマンの藤巻君が捻挫で大けがをおった。彼はそれ以来、捻挫は怖い、と言い続けていた。これからは、僕も言う。捻挫は怖い。


結局、アイスコリ山に登らずに終わってしまった。なんとも言えないやりきれなさと、申し訳なさと、ゴールまで行きたかったとか、いろいろな感情がないまぜになっていた。
そのままアパートに戻り、夕食をいただき、眠りについた。足首は越中さんに念入りに見てもらった。かなり痛い。翌朝は早めに目が覚め、朝から荷物の整理などを行い、サンセバスチャンという街に繰り出し、あこがれのピンチョスという料理をいただいた。かなりうまい。ビーチではトップレスのお姉ちゃんや、おばちゃんが焼いていた。僕ら(渡辺、舘下、藤巻、山本)はかなり場違いな感じだったが、気にせずにビーチの中を歩いた。その後ベアサインに戻り、岩佐さんのインタビューを受け、その間にも制限時間ぎりぎりでゴールまであと1kmの人たちを全力で応援した。あと1kmであのゴールか。そう思うと、ゴールしたかった、という感情が大きくなってくる。ゴールは最高の場所で、僕の1番好きな場所。仲間と一緒にそこで喜びを分かち合いたかった。また、なんで捻挫したのだろう、という気持ちになってしまう。地元の中学生なんかとくだらない話をして、気が紛れたが、やはりゴールに着きたかった。ゴールは旅の目的地点であり、今までをリセットし、これからの出発の場所でもある。
今回のレースは完全に準備不足だった。あげればきりがないが、今振り返るとそう思う。雪が多くて大きな山で長時間のトレーニングができなかったこと、暑さが想像以上だったこと、膝の調子がいまいちだったこと、ルールブックをしっかり読まなかったこと。
やっぱり、「やるか、やらないか」
いつも生徒に言っていたことであるのに、やらないこと、が多かった。雪があってもやらなきゃならないことはやらないといけない。膝がおかしければ早く検査して対処しなければならない。でも今回、改めてよい経験ができた。このところ、ゴールするのは当たり前。それはしっかりとした準備がなされていたから。やっぱり、100マイルは完璧な準備をしないと楽しくは走れない。また2009年の越中さんと二人で行ったモンブランの頃の気持ちに戻ることができた。全てがよい経験になった。これから次にステップしていくのに必要なことばかり。また成長できる気がする。
ゴールはできなかったが、この先必ず進んでいける。今はそう思っている。
多くの皆様の支援を受けて、この遠征が行われました。本当に感謝です。
ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。

山本健一

レポーター紹介
山本 健一
山本 健一

トレイルランナー

2008 年ハセツネ新記録での優勝で注目を浴び、2012 年UTMF にて日本人トップとなる3 位、フランス ピレネー100 マイルにて日本人初優勝と名実ともに日本を代表するトップトレイルランナー